外交官を解かれるまで

外交官を解かれるまで

 出国間際の列車の車中で最後のビザを書き終えた千畝と幸子夫人、子どもたちは、カウナスから国際列車でベルリンへと向かいます。 千畝は数日ベルリンで次の任務命令を待ち、1940年 9月にプラハ総領事館に赴任。それから間もない9月27日には、日独伊三国同盟の調印が行われました。 その半年後の1941年3月、独ソ国境に近いケーニベルクに総領事館が開設され、千畝はそこから日本に向けてソ連に関する情報を送ります。 この年の12月、日本はハワイと東南アジアを攻め、世界は第二次世界大戦に突入。千畝はルーマニアのブカレスト公使館に移った後、1945年5月のドイツ降伏、8月の日本敗戦の知らせを聞くこととなります。

ドイツ語で「ユダヤ人入るべからず」と書かれた公園入口の看板カウナスから国際列車でベルリンに向かう杉原一家 (1940年9月)
〈資料提供:NPO 杉原千畝命のビザ〉

祖国で待っていた
辞職勧告

 1945年8月15日、第二次世界大戦は終わりました。帰国の日を待ち望む千畝とその一家はブカレスト郊外で収容所生活を送った後、1946年11月にようやく日本への帰路につきます。しかしその旅は、長く辛い旅となります。千畝とその一家が日本にたどり着いたのは、出発から約5か月後の1947年4月のことでした。 帰国後の1947年6月、外務省から呼び出しがあり、新しいポストがないことを理由に、千畝は外交官をやめてほしいと告げられます。その後、千畝は生活に追われ職を転々とし、長い間その善意に満ちた行為に日が射すことはありませんでした。

外務省からの退職通告書〈資料提供:杉原幸子〉
 
外交官として最後の赴任先となったブカレストでの家族写真
〈資料提供:NPO 杉原千畝命のビザ〉