更新日:2024年12月23日
マサチューセッツ州
アリソン・ヴオナ
昨年の5月、お天気も良く暖かい日のことでした。その日私は、子どもの考え方というのが、どれだけ両親の考え方に左右されるのかということに気が付きました。その日は木曜日で、私はベビーシッターをしている少女たちのために食事を作っていました。子どもたちはテーブルのそばに座って、遊びに来た友達とおしゃべりをしていました。おしゃべりの内容はテレビ番組から始まって、いつしか学校での出来事に移っていきましたが、その時突然、彼女達が嫌がっている同級生について話し始めたのです。その子の体重や服装についてからかったり、話し方を真似たり、学校でどんな風に彼女を無視したかについて冗談を言ったりもしました。私はその女の子に会ったことはありませんが、ただ単に他の子と違っているという理由だけで彼女に冷たくあたる子どもたちに、腹立ちを覚えました。
子どもたちの会話を聞き、以前読んだ「イレイサー(消しゴム)」という物語を思い出しました。それはベティー・ルーという名前の少女についての物語です。ベティーは両親と共に新しい町に引っ越しをしてきたばかりでしたが、新しい学校で子どもたちから意地悪をうけます。彼女がよその町からやって来たというのが理由でした。この子どもたちは、幼稚園からずっと一緒に学校に通っていましたが、ベティーは全くの新参者でした。子どもたちは、彼女の友達になろうとせず、束になって彼女をいじめたのです。ベティーはとっても不幸でした。ある日、この物語の作者は(ベティー・ルーの同級生の一人)、学校での課題をするためにベティーの家に行きますが、その時、彼女(作者)の友達から電話がかかってきます。その電話は、ベティーと一緒にいて楽しいかどうかと尋ねる電話でした。彼女が電話を切った後、ベティーの母親は、どうして皆がベティーをいじめるのかとたずねますが、彼女は答えることができませんでした。そして、この質問は、その後ずっと彼女の心から離れませんでした。
結局、ベティー・ルーは学校を去り、その後の消息は誰にもわからなくなります。しかし、ある日、いじめが原因でベティーがノイローゼになってしまったということをこの物語の作者は知ります。この物語は、人生を取り消す消しゴムはないと私達に伝えています。一度発せられた言葉は、取り消しがきかないのです。私達にできることは、自分の取った行為の結果を引き受けることだけなのです。この物語が私に与えた影響は計り知れません。そして、なぜか、いつまでも私の心に残っています。
「棒きれや石じゃなし、どんなに悪口を言われても平気だ」とは、子どもが良く使う決まり文句の一つです。しかし、これは真実ではありません。学校でのいじめは、子どもたちが思っているよりも、大きな影響を与えるものなのです。子どもというものは、時として非常に残酷な振る舞いをすることがあります。そして、このような振る舞いは、他人の人生を大きく変えてしまうこともあるのです。「デブ」や「バカ」といった言葉は子どもの持つ自己像や自尊心を粉々にしてしまいます。私の同級生の中にも、理由もなしに他人に嫌がらせをする人たちがいます。その時、いじめられている側に立つのか、それともいじめを行っている側に加わるのか、どちらかを選ばなければなりません。
子どもというのは、親の行動を手本にするものです。親が人種差別的な冗談を言ったり、誰かを笑いものにしていたりするのを聞いた場合、子どももやがて同じような行動をとるのです。こうして、増悪のサイクルは永遠に繰り返されるのです。私は、私の両親から、誰とでも仲良くしなさい、この世界は、異なる人々によって構成されており、同じ人間は二人といないのだと教えられて育ちました。しかし、みんなが私と同じような環境で育つというわけではありません。偏見や増悪が日常茶飯事となっている家庭で育った子どもたちもいます。そして、この子どもたちは親と同じような大人に育ってしまうのです。
しかし、たとえ少数であろうと、正しいことを行おうとする人がいれば、その人に続く人が出てくるはずです。一人の人が、被害者のために立ち上がって、寛容になろうと訴えかければ、その言葉に耳を傾ける人が現れ、増悪のサイクルを断ち切ることができるのです。ある賢明な人がこう言いました。「正しいことがいつも皆に受け入れられるとは限らない。そして、皆に受け入れられることがいつも正しいとは限らない。発想を転換させなさい。」行動を起こす人は、たった一人でも十分なのです。どんなに小さくても、始まりは始まりなのです。
違うということは悪いことであると信じるようにこの少女たちは育てられたのでしょう。私は食事を作り終えながらふとそう思いました。そして、その時、ある考えが私の心に浮かんだのです。食事の後、子どもたちを連れて私の家に向かいました。私には、ある目的があったのです。本棚のどこかに、他の本にまぎれて「イレイサー」があるはずです。30分ほどで本は見つかりました。私は、その本を子どもたちに渡して、読むように言いました。「イレイサー」の伝えようとしているメッセージが子どもたちに伝わるよう願っていたのです。彼女達が実際に、渡した本を読んでくれるだろうかと考えながら家路につきました。私は、正しいことをしたと確信していました。また、このことが彼女達の考え方を変えさせるきっかけになることを願っていました。数週間後、この子どもたちのベビーシッターをしている時に、また、友達が遊びに来ました。ただ今回は、以前、彼女たちがからかっていた女の子も一緒でした。私は、何か偉業を成し遂げたような気がしました。私はきっかけを作ったのです。もし誰もが、考えてから言葉を発することができれば、きっと大きな変化をもたらすことができるはずです。言葉の持つ影響力というのは非常に大きなものです。ですから、誰かに対して何か意地悪なことを言う前には、その行為がもたらす結果について考えてください。