更新日:2024年12月23日

3年生1位

心強いお父さん 

          カシナ・ダイアナ・ムテティヤ 

 

彼が家族の中でどのような立場にあるのか私にはわかりません。なぜなら、今日を生き延び、明日を祈るような家庭の出身である場合、家族の中でうまく付き合うことでさえ難しくなります。彼はとても働き者で、都会に出てきて、キベラの街角で普通の石畳職人になりました。苦しくても決してあきらめなかったので、父が私の父であることは、今となっては喜ばしいことでした。

私が成長するにつれ、父がいつも私たちの笑顔を絶やさないようにしていたので、私たちは生活が苦しいことに気がつきませんでした。娘である私を気遣い、毎朝必ず学校まで送り届けてくれました。身体は不自由でしたが、たった一人の父親として感謝しています。

2014年頃、彼がDCキベラでホテルをやるアイデアを思い付いた時のことを思い出しました。それは、貧しい家族が暮らしを維持するお金を捻出するためのホテルでした。そのホテルはとても繁盛し、多くのお客さまに利用してもらいました。ホテルで働く母の助けを借りながら、父は靴の縫製を続けていました。彼はAというプランが失敗しても、必ずBというプランを思いつく、アイデアマンだったのです。それはすべて4人の子どもたちの笑顔のためにやっていたような気がします。ほとんどの人が彼を嫌っていました。彼はとても頭の回転が速く、多くの問題を解決することができたからです。私は彼が、マキナ通りで働いて、私たちの食卓を支えてくれていた時のことを覚えています。

私が彼を愛し、感謝していることのひとつは、彼が私たちの学業にとても注力し、教育がいかに重要であるかについて私たちを励まし続けたことです。彼は私に、教育があれば飛行機を飛ばせるし患者を治療することもでき、そして最も重要なことは、大勢の人の前に立って、静まり返った沈黙の中でアドバイスができることです。彼は、日々、私が学業に対する愛と興味を膨らませるようにしてくれました。それは私が、彼がかつて抱いていた夢である医者になりたかったからです。
日が経つにつれて、私の家族の生活が厳しい状況になっても、彼は決して子どもたちに悲しみを見せず、いつも私たちを励まし、明日はきっといいことがあると言ってくれました。私が成長するにつれ、私は、家族の中で起こるさまざまな問題に直面するようになりました。そんな時私が泣いているといつも、「これで終わりじゃない」と言ってくれました。
彼は、今、私たちが直面している問題を解決するために、自分の心を使うことだと信じていました。彼は私に、貧しく生まれても、貧しく死ぬのは自分自身で決めることだと教えてくれました。それは、私が頭脳を持ち、教育を受けているからです。彼はいつも私を理解してくれましたし、父親として必要な愛と養育のすべてを与えてくれました。経済的に安定せず、身体的にも困難な状況にもかかわらず、家族のために立ち向かった彼はヒーローだと思います。彼は、家族について、また自分自身について、人々が言うことに決して臆することなく、勇気と努力を惜しみませんでした。
彼は、私や私の兄弟に勤勉の精神を伝え、いつも私たちみんなのためにいてくれました。彼はまた、社会的に人々と交流を図り、私たちのために借金をする危険を冒しました。しかし、誰もが彼を理解できるわけではありません。
中には喧嘩をしたり、家族を脅したりする人もいました。地域の人たちは私たちのことを奇妙な家族だと遠巻きに見られたり、遊牧民のように見られていました。しかし、それでも人生は前に進まなければならないし、それは奉仕の人生でした。父のおかげで、私は今、10代で立派に成長しています。
私が父のことを書いた理由は、父は私が成長する過程での指導者であり、子どもたちのために多くの犠牲を払ってくれたからです。彼は素晴らしい人です。誰も彼がこれほど良い家庭を維持するとは思いませんでした。私たちは貧しかったし、父は身体が不自由で、働いていなかった時期もあったのですから、彼は英雄にふさわしいと思います。彼に感謝しています。